はじめに
能楽森田流職分家「寺井家」の歴史について簡単にまとめてみました。
寺井家は元々越前の国の出にして、代々奈良「春日大社」奉仕役者の家でしたが、徳川3代将軍「家光」の命に依り江戸に出府以来、幕府御抱及び将軍家御抱役者(笛方)の家として、江戸より平成まで14代直系子孫にて流儀と家を守ってきました。
江戸出府の節に幕府より森田流に編入され、森田庄兵衛弟子という事になり、本来森田家より古い笛の家柄である為に森田宗家の名乗り名(注1)『庄兵衛』より『兵衛』の二字を贈られましたが、寺井家の当主は代々『久八郎』を名乗り名としていましたので以後隠居名を『勘兵衛』とし、以後は両家表裏一体の家として色々と相談事を預かってきました。
出府以来、幕府御抱及び将軍家御抱えのほか各大名家にも出入りし、中でも岩手南部藩とは関係が深く、藩士が命に依り弟子入りしていました。また、九代「久八郎」が藩主の招きに依り盛岡に下向したとの記録も残っています。
代々の中でも四代・七代・八代・九代の「久八郎」は名人と云われております。
この中の九代「久八郎」は時の家元「森田初太郎(注2)」が行なった森田流の笛の基調改革に協力をし、それ迄の『黄渉調』の指扱いから一つ下げて『双調』にし、今迄の堅い高い調子を柔らかく力強い音色に換え、他流儀との差を正明にしました。以来、寺井家では『双調』にて吹く様になりました。
又、九代「久八郎」は江戸幕府最後の勧進能である「宝生太夫・弥五郎友干(注3)」による『弘化勧進能(注4)』に家元が江戸に不在の為、流儀を代表して舞台を勤めました。
その後、明治維新となり、それまで幕府から扶持を得ていた能楽界も困窮をきわめ、廃業が相次ぎ、自殺者や娘の身売り迄も出ました。その中でも九代「久八郎」は東京に留まり、家と流儀を守って来ました。
その時期、家元「森田初太郎」は幕府の扶持が無くなると都落ちし一時は薬売りとなり諸国を遍歴していましたが、追々能楽が復興して来ると東京に戻り「鉦次郎」の姉「リキ」を内妻として世話を受けていましたが、明治39年9月。下谷の長屋にて息を引き取りました。
その折、「鉦次郎」は森田流の家元と名跡を託されましたが、親戚の幸流小鼓方「三須錦吾(注5・略系図参照)」と相談の上、旧幕時代森田家が観世流の座付の故をもって、時の観世流宗家「観世清廉(注6)」に森田の家元を預かって貰いました。
旧幕時代は、家の当主の名である「久八郎」に対して扶持が支給されていた為に当主は代々「久八郎」を名乗って居ましたが、維新後はその必要も無く、又、時勢も代わって来た為に数代に渡り「久八郎」の名跡を継ぐ者が居りませんでしたが、昭和59年に「啓之」の長男「三千丸」が約100年ぶりに「久八郎」の名跡を襲名し、今に至っています。
※注1 「名乗り名」とは、代々の当主の名前。江戸時代は、この名前に対して扶持が与えられた。
注2 「森田初太郎」は、笛方森田流最後の宗家。明治39年没。
注3 「宝生太夫・弥五郎友干」は、シテ方「宝生流」15世宗家。宝生紫雪。幼名「石之助」。
寛政7年生まれ(?)。文久3年没。
嘉永6年、息「宝生九郎知栄」に家督を譲り、金沢へ隠居した。
注4 「弘化勧進能」とは、宝生太夫が弘化5年に行った、江戸幕府最後の勧進能。
勧進能とは、寄付などを集めるために、公許を得て興行する能のこと。
通常は、太夫が一世一代で行う。
注5 「三須錦吾」は、小鼓方幸流。幸流芸事取締。「三須家」12代。幼名「金之助」。
天保3年生まれ。明治43年没。享年79歳。
注6 「観世清廉」は、シテ方観世流23世宗家。慶応3年生まれ。明治44年没。享年45歳。


